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自然と歴史が織り成すロマンを辿る⑥~“バークガフニ氏と往く!The Road to UNZEN~外国人が愛した雲仙”前半~

加藤奈保子

雲仙観光局は、令和5年度の観光再始動事業として、昭和初期ごろ外国人が多く訪ねていた避暑地「雲仙」までの道のりを、当時の移動方法や過ごし方を体験する新たなコンテンツとして事業化を目指し、動いております。

(観光再始動事業とは?)
観光庁がインバウンドの本格的な回復を図るため、地方公共団体・観光地域づくり法人(DMO)・民間事業者などが手掛ける体験コンテンツ・イベント等の創出等を支援。対象コンテンツの条件は、「新規性が高く、自然・文化・食・スポーツ等を十分に活用したもので、高付加価値化されたもの」など。令和5年度、雲仙観光局は「UNZEN Volcano story ~Sky・Sea・Earth~世紀を超えて、もう一度、現代版雲仙で日本に出会い直す旅。雲仙火山 空・海・大地の物語」として同事業に採択されました。コンセプトは、「目の前にあるモノから、そこに眠るストーリーを体験・体感することで、より感動を提供できるコンテンツ作り」です。
現在、The Road to UNZENを含め4種類のツアーを開発中です。

前回迄のお話は…   

⑤~多言語化事業の専門スタッフと行く“The Road to UNZEN” 後半~

今回の記事は、いよいよ、一般のお客様に向けてのツアー販売を見据え、より実践的に、そして更に磨きをかけて良いものにすべく、有識者の方を対象としたプレツアーを、10月末に2日間に渡り開催。1日目の活動報告です。

ようこそ!雲の上の避暑地へ                   バークガフニ氏と往くThe Road to UNZEN            

~外国人が愛した雲仙~

明治から大正、昭和の初期にかけ、雲仙は海外の方から非常に人気の避暑地でした。日華連絡船「上海丸」で長崎に入港した外国の方は一路、雲の上の避暑地雲仙を目指します。その経路は交通手段が発達した今とは違い、茂木~小浜の海路と、小浜~雲仙の徒歩を駆使したものでした。昭和の初期の陸の道を、今と昔を重ね合わせ、昔の旅人に思いを馳せ、なぞるように旅をします。外国客が多く訪れるにつれ、長崎の交通インフラは整備されていったと言われています。外国人がどのような道をたどり、どのような日々を雲仙で過ごしたのか。

なぜ、異国の遠い日本、雲仙に多くの海外の旅行者が、こぞって訪れていたのか。その謎に迫った時、気づかなかった新たな魅力に出会えるかもしれない…。

1日目は、外国人居留地研究の第1人者である、バークガフニ先生の著書『欧米人が歩いた 長崎から雲仙への道』をそのままに、先生の特別な案内で辿ります。

かつての外国からの旅行者は長崎港に到着し、雲仙への旅路で何を想ったのか~長崎から雲仙への道~  

その一:~長崎から茂木までの旅路 昔と今~     

本日の合言葉は、  『かつての旅人は、』

抜けるような青空の下、本日は有識者(海外男性女性各1名、男性1名、女性2名、通訳ガイド1名)の皆様にお集まりいただきました。

大正13年から昭和18年まで長崎港と上海を結んでいた日華連絡船「上海丸」の入港場所であった、今は出島ワーフより、いざ、雲仙に向けて出発です。ご参加者の方同士、軽く自己紹介を頂き、本日のメインガイドであるバークガフニ先生よりご挨拶を頂きます。

そして、今回の旅の重要なアイテムをご紹介。

バークガフニ先生著書の『The Road from Nagasaki to UNZEN』から、雲仙までの道のりに合わせ先生が監修した、明治大正昭和時代の選りすぐりの絵葉書や画像が満載の特別ガイドブック。ページをめくれば、今は昔、、、の世界が広がる。見ているだけで、タイムスリップをした気分になれる1冊。これをお供に雲仙への旅路に、出発です。

ページをめくれば、明治大正昭和の時代の長崎から雲仙の様子が見られます。

かつての旅人は、人力車で茂木街道を通り、次の目的地茂木漁港へ移動。今回の旅は、ちょっとだけエンジンの力に助けて頂き、体全身で風を味わえる、トゥクトゥクで旧茂木街道に向かいます。

長崎の街中をトゥクトゥクが、爽快に走り抜けます。ちょっとアジアンな外観に、道行く人が振り返ります(笑)。風が心地良い!ちょっとびっくりするぐらいの狭い路地が旧街道。ちょっとしたアトラクション気分を味わい、路地を曲がると…と、ここで、バークガフニ先生が、さあ、ガイドマップに紹介されている特徴的な形のお山、ATAGOYAMA愛宕山を探してと指令が飛びます。『あ!あれかな!?』昔と、今の違いに時の流れを感じます。

一行は、まだまだ旧茂木街道を、突き進みます。

当時の面影があちらこちらに…。石造りのアーチ橋や、風に揺れる青竹の波。ガイドマップの中の写真と、目の前の景色が交差する面白さ!この絵葉書の場所は、ここでは!?と、どんどん探して見たくなるんです。

茂木ガイドのエキスパートである前田さんをお迎えし、茂木漁港までの小さな集落を走り抜けます。海路が主なルートだった初期は、長崎から茂木漁港までを人力車など陸路にて、その先は、この茂木から千々石や小浜まで蒸気船を利用して橘湾を渡り、雲仙の入り口の小浜迄を旅したということです。

海側から茂木の街を懐古する。かつて、旅行者に人気だったビーチホテルは、スーパーと郵便局の辺りに…

昔から町の歴史を見守っている漁村の守り神、潮見崎観音様へお参りに。急な階段を登っていくと…。

かつての絵葉書や写真にも潮見崎観音さんの境内にある灯台の役割を担う石灯篭や、湾内に停泊中の蒸気船が登場し、旅人の皆さんから愛されていた場所だったことがわかります。さあ、私たちも茂木の枇杷ゼリーと一口香のお菓子で元気チャージ!ここまで心地良い風と共に走ってくれたトゥクトゥクとはお別れ、車で陸路を小浜迄参ります。

その二 ~茂木から小浜までの旅路 昔と今~ 『かつての旅人は、海路のち陸路を行く』

その昔航路だった旅の手段が、だんだんと楽に移動できる列車や車に移行していったそうです。私たちも、海外の方が多く訪れることによって、インフラ整備がされていった車道をなぞるように、一路、雲仙は小浜に向けて車は走ります。長崎から島原半島への陸路は、先人たちの旅の恩恵と言えるのかもしれません。

車内では、海の向こうの普賢岳を見ながら、「雲仙火山」についてのガイドも。

この半島の生い立ちから、火山によるこの土地の恵みや国立公園などの話をご紹介。そして1つの問いかけがされます。『なぜ、人々は古くから、火山と隣接して暮らしているのか。』時として自然の牙をむく火山。しかし古くからこの土地を愛し、この土地で暮らす人々は多くいます。なぜ、この場所に人々は住み続けるのか…。その答えは、この土地に魅了され愛した旅人と同じ旅路を行けば、何かを感じていただけるのではないでしょうか。

茂木から海岸線の路を行き、雲仙市内に入ると、ここからは、旧小浜鉄道(温泉軽便鉄道のちに温泉鉄道)の跡地をなぞって行きます。皆さんは、かつて鉄道でのエントリーする際の橘湾を望む風光明媚な観光列車として、わずか12年間ですが、幻の鉄道をご存じでしょうか?

今は車道と変身したその線路の道は、メインの国道から離れ、あまり通りもない道ですが、木々が生い茂る山林の間に蛇行するように走り、ところどころにかつての線路の跡をはっきりと感じさせてくれるトンネルや、切り崩し、プラットホームの跡地などがあり、当時の面影が色濃く残る場所でもあります。

その三 ~小浜での旅の楽しみ 昔と今~『かつての旅人は、雲仙の山行への準備拠点に』

お昼すぎに、小浜温泉に到着。小浜温泉は、かつて海外の方にも、これからの山行に備え、小浜や千々石で前泊をして、パワーチャージしてからお山に向かう温泉地として賑わった宿泊地。かつての旅人が、この土地ならではの食材で心よりおもてなしをした料理を楽しんだように、この土地の恵みを、おもてなしの心と美味しい食材で彩られた素晴らしいランチを、いただきます。

スタートのお飲み物から、どれもシェフの食材に対する心意気と愛情を感じさせていただく素晴らしいお料理ばかり。途中、自分で選んだお野菜を小浜温泉の日本一熱い蒸気で蒸し上げる地獄蒸しの体験も織り交ぜながら、最高の食卓を囲みます。地元の食材で、身も心もパワーチャージ完了!さあ、雲の上の避暑地 雲仙へは、もうひと踏ん張りです。

その三 ~小浜から雲仙への山路 かつては険しい山道を、どう旅人は乗り越えたのか

小浜温泉から雲仙に向かう登山口には、英語の看板『Road to Unzen』が設置されていたそうです。

観光地として雲仙に海外の人々が訪れ始めたばかりの旅路は、それは過酷なものだったようです。今でも小浜から雲仙への国道57号線は、かなりな勾配と多数のカーブがあり、車のエンジンにも負荷がかかる箇所が多数存在します。そんな場所を、かつての旅行者は、どのように乗り越えていったのでしょうか?

車が走るようになる以前の雲仙までの約16kmの山路は、開発当初は、男性は、歩きまたは馬にて、後に人力車や馬車なども利用していたそうですが、女性は、昔ながらの駕籠ではなく、チェア籠という、ちょっと変わった乗り物で、山越えをしていたそうです。

今回のツアーの目玉!当時の様子を再現、チェア籠体験です。バークガフニ先生より説明を頂き、小浜温泉の現存する古い建物の一つとして歴史を感じさせてくれるお宿 春陽館さんの前から、出発です!

今回は、バークガフニ先生も特別に体験されました!目線が、ググ~っと高くなるため、見晴らしは最高だそうです。女性の方は口々に「恥ずかしいけど、お姫様気分を味わえました!」との事。意外と楽しみながら、険しい急こう配の登山道を、上がっていたかもしれません。

かつての旅行客は、雲仙の玄関口である札の原集落に到着したら、ひと安心。安堵の表情を浮かべたそうです。我々も、旅行者がこぞって訪れたという、雲の上の避暑地、雲仙に到着しました!

その四 ~雲仙に到着~  『かつての旅人は、雲仙ではどのように過ごしていたのか…』

約16kmの山路を、けして楽とは言えない山行で登ってきた海外からの旅行者たちは、やっとの思いでたどり着いた雲仙で、いったいどのような時間を過ごしていたのでしょう。きっと、海外から、そして長崎から雲仙までの労力や時間をかけても、何としても雲仙の地へと足をむかせる、素晴らしく魅力的な場所だったに違いありません。

先ずは、大人の社交場となっていた、雲仙ゴルフ場へと我々も向かってみましょう。

雲仙ゴルフ場は、日本のゴルフ界でも歴史的に非常に貴重な場所です。わが国で最も古いパブリックコースとして、1913年(大正2年)開場。1903年(明治36年)につくられた神戸ゴルフクラブにつぐ、二番目に古い歴史あるゴルフ場です。コースは標高750mの丘陵コースで、驚くことに、当時は機械力も無く人力で整備を行っていたそうです。

この広い土地を、人の力で整備していたなんて、驚きと共に、かつての雲仙の人々に、山を登ってきた海外からのお客様に喜んでもらおうという心意気が伝わってきます。昔も今も、日本人の心には、おもてなしの心が強く宿っているのだなと、思うのです。

日本最初のパブリックゴルフコースである雲仙ゴルフ場は、長崎県営温泉公園(現国立公園の先駆け)のシンボル的存在だったそうです。

観光客向けの利用促進を念頭に、海外だけでなく日本人の利用客も、トーマス・グラバーさんの息子さんの倉場富三郎氏の尽力により、ゴルフ人口が増え、活性化と、ゴルフ場の維持管理につながり、結果客足が増えていったそうです。

館内には、ゴルフ場設立当初のゴルフ場の様子や、倉場富三郎さんのゴルフ倶楽部の皆さんが和やかに集合写真に納まる記念写真などを見ることが出来ます。ゴルフ場の壁面におかれるクラブ会員さんの一覧には、当時の長崎の有力なビジネスリーダー達の名前が連なり、ここが社交場として実際に使われていた場所として今と昔がつながる、時間が交差した不思議な感覚を味わえます。

次に、海外の方の滞在先として大人気だったホテルの1つ、歴史ある雲仙観光ホテルに見学へ。その当時のホテルがそのままに現存しているのは、雲仙の中では、今では唯一となっており、当時の様子がわかる貴重な存在です。

ロビーやバー、ダイニングなど、重厚な作りの扉を開けると、当時と変わらない部屋や調度品など、重厚な歴史ある数々の品々を見学させて頂きます。ホテルの部屋の扉を開けると、一気に100年前にタイムスリップしたかのような気分に!

毎晩のようにパーティーが開催されていたというホテル内のダイニング。先生の著書内の昔のお写真と比べてみると、まったく変わらない窓枠や天井の梁に、みんなで大興奮。

このまま、かつての旅行者気分でチェックインさせて頂きたいところですが、本日のご案内はここまでとなります。

明日は、よりリアルに、雲の上の避暑地、雲仙で滞在期間中、外国から来たお客様が実際にどのようにして、長期間の滞在を楽しんでいたのかを再現し、体験します。

苦労してたどり着いた雲仙という土地でどんな過ごし方をしていたのかを知り、その時間を疑似体験した時、夏の避暑地の選択に、なぜ、異国の雲仙を選ぶまでに至ったのか、その答えが見つかるかもしれません。

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